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『地球サイズの靴を履いた』

そんなエネルギーをインストールしてもらった。

- わたしがわたしとつながる -

それは

わだかまりや葛藤がどこかにいってしまう、という事件。

わたし自身がアースされてしまったみたいに軽い。

にもかかわらず

ただただわたしがいる、という不思議な『感じ』。

わたしがわたしであることがまとまっていく。

散り散りだったわたしがひとつになる。

かつて泡姫であったことも

当然すぎるがゆえに

分離させている不自然が極まる。

これまでで一番長く続いた仕事であり

いわゆる人気嬢として長らくNO.1を維持し

コンサートチケットよりも予約が取れない

と嘆かれたりもした。

ヒーリングサロンを開けたのも

他者に借金することなくクローズできたのも

鍼灸あん摩マッサージの学校に通い

国家資格を得られたのも

ひとえに泡姫だったわたしのお蔭で

その要素無くしてわたしであるはずがなく

わたしはわたしのどんなささいな部分でさえ

こよなく愛しているのだとわかってしまった。

これほどシンプルなことはない。

これほどに温かな感触はない。

大切な人の未熟な側面に触れても

まるっと受け容れられるように

自身の未熟さに対しても

まるっと受け容れられる手触りが感じられる。

拙いがゆえに予防線を張ってしまうところも

苦手意識や過敏に反応しすぎるところも

社会性が無く中途半端で

すべてに対してとことん甘いところも

『かわいいところ』でしかないし

やがて目の当たりにする変化も楽しみでしかない。

誰かを気遣い

誰かの干渉を回避し

誰かの承認を欲し

そんな、誰か、誰か、誰か、が

もうとってもめんどくさくなってしまった。

なんでそんなめんどくさいことをずっとやっていたのか

今ではもう訳がわからない(笑)

決して穢れることはない。

何かから脅かされることもない。

ただただ『自身の想う美しさを生きること』それに尽きるだけ。

これだけは決して譲らない、たったそれだけ。

わたしがわたしであることは

誰がどんな評価をしようがこの先も変わることはない。

もしかしたら

これまでよりも多少悠然とした感じになるかもしれない。

まったく今までと変わらないかもしれない。

これまでの細やかさが欠落して

冷たい人と映ったり

鈍さに辟易されたりするかもしれない。

けれど、そんなことより

『今のわたし』が誰とつながって何ができるか、とか

『今のわたし』を必要とする人とご縁できること、とか

の方が楽しみでしかたがない。

わたしはわたしに『生まれてきてありがとう』と言う。

わたしはわたしに『今また新たに生まれてこれてよかったね、おめでとう』と言う。

自己肯定イコール報酬系、なのなら

『好きなことだけやる』

をこれまで以上に

ただただ徹底していくばかりだ。

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私はお花畑のままでいいんだなぁ〜

と舞い戻ってふうわり。

居住まいが正されていく感じを取り戻しながらも

かちっとするでもないくらいの『ゆらぎ』が

ちょうどいい感じでバランスをもたらす。

。。。

何かを決めたい

形にしたい

の延長線上に

お花畑は無いと知っているのに

かわいい子だけをしに来たのは

まさに『まぼろしの世界』を

『まるごとまぼろしな私で遊ぶ』ためだけなのに

たまたま珍しく

現実感あふれる方にうっかり行ってしまったものだから

一瞬わけがわからなくなってしまったの。

。。。

違う次元(従来の)も魅力的だけれど

そちらではない

と瞬く間もないほどの素早さと静けさでもって

本能は告げるから。

解っていつつも没頭するという遊びで満たすのもよくて

矛盾という遊びをあれこれ繰り広げてみるのも楽しくて

冷たい温度で取り合わないことすら遊びのひとつで。

どれかに偏ってみたりするのも

平たく満遍なくしてみたりするのも

どれも素敵だから。

純化したものを純化した現象化とする必要はまったくなくて

穢れも美しさも一体で

真実なんて自らですら解り得なかったりするもので。

それでも

すべては『望み通り』叶えられていく。

。。。

硬いものを脱いで対峙すると

自覚していたよりもはるかに

ふわとろやわやわなものでできていることを痛感する。

ぐらぐらし始めそうな予感がするよりもずっと前に

消えてなくなってしまいそうな儚いそれに

驚きを隠せないでいるのも

ほんの一瞬のことで。

遠い遠い昔に覆ってしまったが故の

繊細すぎてあどけない手応えを

次の瞬間には抱きしめて

一致する。

。。。

苦しくて、吐きそうなくらいなのに。

苦しすぎて、逆に吐き出せない。

。。嗚呼

。。。

けれど

それでいいんだ

と感じ、浸り切る

すべて溶け込ませる。

遠かったそれが

麻痺していたそれが

いまや密着するほどに

ひりひり過敏になるほどに

私になる。

取り戻されてく。

。。。

やり方とも言えないくらいの幼いやり方。

どんなに痛くても苦しくても

受け取れる自分になってた。

いつの間にか。

なぁんだ。

私は私でいいってこういうことか。

迷惑かけていいってこういうことか。

現象(結果)を引き受けると決めてしまってから

閉じていた領域が解放されて

自身の広大さが増す。

自覚とは別のところで

それは今も拡大し続ける。

変わりたくない人の怖れや

今さら変われないとする諦めや悔しさや

変わる気ないと言い切る『今』を守る覚悟や

変わりたいという切望のあらわれみたいな淋しさや悲しさ

そういったあれやそれやを察知して

同時に自身のそれにも目を開いている。

愛おしくも、切ない。

切なくも、愛おしい。

それでいい。

全部在る中で、感じたいものを感じる。

。。。

とはいえ

わずかに『いつものパターン』も表出する。

そう。

防御、回避、攻撃、排除しようとするアレ。

でも、それももう意味がない、と解っているやつ。

いつもの癖で出たものの

シリアスな内側では

そのばかばかしさに笑みもこぼれて。

もう、護る必要なんてなくて

そのまま無防備なままでも十分安全で

その安全は自らが創ってきた結果で

過去の自らの変化の決意が

今の私を救って

防御を緩めさせて

新たな自らの変化の決意を助けてる。

苦しさは私のものではないし

回避するしか

防御するしか手立てがないのも

もはや私ではなかった。

それらを映し出す私は

『何もない』が故に

映し出すことが可能だった。

そんなやわらかな発見。

。。。

自身に対して

これまで『健全』と想ったことがなかったな

という気づきがようやく届けられたことも

いつの間にかそれを身につけていた

ということなのかもしれない。

変わっていくことで何も変わったりしないし

何も変わらないままで

想いもよらないほど変わっていくものなのだと実感した

秋の空気を感じた最初の日。

闇を駆けていく

夏の初めの生ぬるい空気も

速度を増すと

湿度を抱いた冷涼な風へと姿を変える。

。。。

見覚えのある風景

立ち寄った場所

じわっと痛くてどことなく甘い『感じ』だけが

鈍く蘇生する。

息を吹き返す。

そういえばそうだった、くらいの

薄い膜で覆った、くらいの感じで。

あれはなんだったんだろう。

今、それを見て感じた、それの行きつく先は?

あのとき受け取ったギフトは?

。。。

喪失は

その対象の生死にかかわらず

大きな空洞を置き土産にするから。

引っ越しの撤収直前の

あのがらんどうな感じ。

似ている。

愛しさと

すっきりさと

心許なさと

もう戻ることはない

という覚悟と。

。。。

霧の中

外灯は幻影を創り出し

目の前の白も

なんともおぼつかない。

霧があちらこちらから

降るように舞うから

雨にずぶ濡れになるみたいに

霧にもずぶ濡れてみる

しっとりした静けさの中で。

。。。

深い深い行き場のない想いは

留まり続けていたがった霧みたいなもの。

そんなわがままを

いくら太陽の笑みが赦したとて

『息つく在り処』は

自ら見出すよりほかないの。

シンプルにシンプルに抽出した事実は

- 『望み』の方向へ運ばれた -

それだけ。

静やかな気づきが降り注ぐ。

一瞬で霧散していく

長らく凍らせていた何か。

また同じことが起きても大丈夫。

もう何度でも味わえる。

その度ごとに殺してた『感じ』は

今、穏やかな呼吸へ。

。。。

次の瞬間

霧の世界を抜けた。

きっと希望ってこう見える

みんな同じように見えている中で

目立つとか

すごいとか

若いとか

きれいとか

そんな理由ではなくて

何かの条件ではなくて

焦点が合う

なぜかひとつにだけ

そんなようなこと

光はみんなに等しく当てられているのに

なぜかひとつだけ際立って見える

自分だけの特別に感じられる

そんなようなこと

誰かのそれとは違っていても

それぞれ形を成しているから

誰もに内在する

こんな景色

恋も仕事も生き方も

誰かを育むことも育まれることも

こんな何気なさの中に見出されてる

きっと希望ってこう見える http://www.crystarium.com/dreamspell/2015/0727_173500.html

くりすたりうむさん(@crystarium_)が投稿した写真 -

人のいない海で

白のマキシワンピ

裸足になったら一瞬でアースした

。。。

砂のざらつき

身体の重さ分、わずかに埋もれる感じ

子供みたいに何度も踏みしめてみる

。。。

何かが取り戻されてく

波打ち際はとても静かで

空と海の境が限りなく曖昧な

黒のグラデーションを背景にして

くるくる回ってみたり

ぱたぱた走ってみたり

。。。

踊りにもなっていない

そんな『ただの歓び』と

でたらめという個性が

マキシの白をふぁふふぁふはためかせて

夜風と黒基調の世界に

優しく浮かび上がる

。。。

梅雨明けの海、一番乗り、独り占め

汚される直前の

無邪気な隙という名の永遠

珍しく『建前』などを使った日。

建前は本当に便利で

調子を合わせておくだけで調和する。

でも、建前ってなんなんだろう。

ある種の人達の安心のためだけであって

まったく本質的ではなくて

でも役に立つ(笑)

そのめったにない機会のお蔭で

なにやら『ぐーったり』がやってきた。

トリガー、ありがとう。

。。。

すっかりへとへとになってて

自覚してたけど

免疫系もずたぼろで

自覚してたけど

かなり麻痺させてたことに気づき

自覚してたけど

愕然(笑)

。。。

3次元での体裁を整えながらも

大切なものを見て見ぬ振りするケースだとか

3次元に存在すること自体の希望と絶望と葛藤のケースだとか

みんな密やかにそして大騒ぎしながら

放置したりクリアしたりしているよ。

そうなの

わいのわいのしてる人達の方が

私より絶対的に元気なの。

だから、ホントは全然放っておいてもいいくらいなの。

過剰に反応していたことに気がつくと

瀕死も納得(笑)

。。。

きっかけは

過剰反応しているときほど

あまりにたやすく見逃してしまいやすくて。

それでも『危険だ』『ピンチだ』と

サインは高々と鳴り続ける。

『自分自身へ立ち戻れ』と

肉体を使って、無音でもって。

無視し続ける自由もある

聞き入れる自由もある。

サインを無視し続け、密に関わり続けることで

『気づき』を待ち続けて命を終えても構わないし

サインを受け止め、密ではない関わりとなることで

『気づき』をもたらすことになるのならそれも倖い。

。。。

これ書きながら

どっちでもアリ(何でもアリ)にしておくのって

ホント大事だなぁ〜としみじみ。

仕切り直して

また好きにやることにする♡

『信頼のもと』と一体でいる意図を。

自分に戻る、だいじ♡

あと、喉も早く良くしよう(笑)

。。。

長い年月を経て

あのときそのときの自分を救済しているような経験は貴重で。

そして

あのときそのときの私は救われてなくてよかったんだ(望み通り)

と感じられたのも今さらながらに得た宝。

先の、放っておいていいを『放っておかなかった』のは

過去の自分の願いを叶えていたことに行きついて

そんな無意識の働きにすごいなぁ~と想うと同時に

そんなまどろっこしい確認みたいなことは

もう必要ないな、とも想って

(だって私、今しあわせだし♡)

何やらいろいろ流れて軽くなった。

。。。

状況も関わり方も次第に移り変わっていく。

補助輪無しの自転車に乗る姿を見送るような夏の盛り。

梅雨明けの快晴

早朝に寝つき、お昼の目覚め。

コンタクトを着けぬまま

視界に広がるブルーを感じる。

目が覚めるようなそれを

コンタクトを着けて

また寝転がって視界いっぱいに満たす。

クリアな青。

抜けるような青。

夏、本番。

。。。

まぶしいエネルギーが日差しと風とに網羅され

その余韻を網戸越しに受けながら

のんびり過ごす午後。

身体を撫でられて

寝かしつけられる子みたいな

ゆったりとした面持ちで。

懐かしい本を手にしたり

異国の彼女とつながったり。

。。。

なまぬるい風に誘われて

日射しが弱まってから

小さな夏を探しに行く。

そして、夏の前の主役と出逢う。

梅雨の余韻が優しくバトンを手渡すみたいで

ひっそり、ありがとう、を想った。

この前、学校前に飲んだジューススタンドの感じを

もう一度味わいたくて

久しぶりにグリーンスムージーをつくる。

氷の入っていない優しい感触はお家ならでは。

ほうれん草+セロリ(葉)+パイナップル

バイタミックスすると

繊維が見事に粉砕されて

ほわほわの口当たりになるから好き。

彼と花火に行くといって

友達が全身を華やがせる。

あれやこれやと浴衣に夢中な様が

なんとも微笑ましかったので

着る着ないはさておき

羽織ってみたら、と2着ほどレンタル。

夏はこれから

くっきりした青で縁どられたビル

華やぐ姿もしとやかに跳ねた。

。。。

そういえば

彼氏さんと花火に行ったことないな、と想った。

タイミングが合わないのはさておき

浴衣姿くらいは見たいと想ってくれていたら嬉しいな、と想った。

。。。

たとえば

かわいい自分で逢いたい

とセルフプロデュースして

素敵だね、とか

かわいいね、とか

似合ってる、とか言われて

そんな単純なことで舞い上がったりして

人混みの中

手を引いてもらってはきゅんとして

ぶつからないように庇ってもらってはきゅんきゅんして

一緒に夜空を見上げて

すごいね、とか

きれいだね、とか言い合ったりして。。

。。。

そんなささやかな重なりが

想いのほか共鳴させて

(未だに)素で楽しめてしまえる私なのだろうことを

たやすく想像する。

普段、なかなかこんな風に

ポテンシャルに意識を向けることはないから

きっと、彼女をきっかけに

『同調連鎖』を遊ばせてもらえたのかもしれない。

。。。

昨夜、お家から横浜の花火の音が聞こえた。

人多いし、暑いし、疲れる、といった

朝の通勤ラッシュみたいな心象をすべて払拭して

おでかけしてみるのもいいかもしれない。

夏の夜はいつだって

泣きそうな懐かしさが宿っている。

。。。

写真は線香花火。

何年も前に戴いた、お客様からの戴きもの。

夢みたいで素敵ね

食べ物とかではない、こういう素敵な『消えもの』があることをはじめて知った。

なんとなくもったいなくてしまい込んでいたのだけど

今年はしてみようかな。

今の場所に引っ越してまもなくつくったカーテン。

お裁縫はまったく得意ではないけれど

新しい生活、というときめきが

自ずと『没頭する』へと導いていった。

自分を想ったり、誰かを想ったりすることが

誰かにとってよくて

自分にとってもよくて

みたいに『入れ子』になっていくのが好き。

カーテンが揺れて

凹が凸になったり

凸が凹になったりする

与えると与えられるはたいてい一致するみたいな感じで。

。。。

理由はあってもなくてもあまり関係ないの。

なんらかのきっかけによって『没頭』がもたらされ

それを経て取り戻している『何か』があって

そんな風にして創造されていく『お蔭』を想う。

手渡し、手渡され

深まって、ありふれて、しっくりと馴染んでいく。

みんなみんなめぐりめぐっていく。

仕事も恋愛も勉強も、その他もろもろ幾多のことも。

人の人生を動かしてしまうこと

というのはどういうことなのだろう

ということをよく想う。

必要なことしか起こらない世界において

動かすも動かされるもなくて

影響し合うということのすべては『し合わせ』で。

働きかけをしたようで、実は働きかけられていて

愛しているようで、実は愛されていて

救っているようで、実は救われている。

そんなことをとりとめもなく想うことで

生きていること、生かされていることを感じたりできること自体が

しあわせなことだなぁ~と想うの。

きゃぴきゃぴはしゃいじゃうみたいなそれとは違って

とってもじんわり沁み込む感じのね。

。。。

昔のくりすたりうむのときみたいに

たくさん並べたままでいられる環境ではない代わりに

ごくごくわずかなクリスタルボウルを持って鳴らしに行く。

ある雨の日のこと。

お家で鳴らすとお家のエネルギーも変わるの。

体感させた人ばかりが変わるわけではないのね

ということを今さらながらに再認識する。

ペットがいればペットも変わる。

個数じゃない、とは知っていたけれど

個数があった方がいい、みたいなところにハマっていたことにも気づかされる。

それだけそこに頼っていた、ということね。

だいたいのそういったこと(護るための価値観やこだわり)は

自分ひとりでは気づきづらくて

何かちょっとしたきっかけを頼りに

そこに『素直さ』を一瞬でフォーカスさせることができると

また一枚はらりと脱ぎ去った私の後ろ姿を見届ける過去の自分が消えていく。

。。。

1時間ほどボウルを鳴らした後

なかなか目覚めないのを無理やり起こすのが

とてもとても気が引けて

お腹にしばしのお手当。

お腹が一定のリズムをもつ呼吸の動きと連動して

上下に膨らんだり凹んだりすることや

その温かさ

眠っている顔を眺めていたら

息をしている、というだけで、人はとてつもなく感動できるのだ

という豊かさをたっぷり戴く。

それが初見のお客様ではなく、お友達だったから

というのは大いにあったかもしれない。

心からの感謝。

本当に。

。。。

ボウルの後

泣き過ぎた後に頭が痛くなるような

二日酔いで頭がガンガンするような

そんな痛みがしばらくの間続く。

初めてだったり久しぶりだったりすると起こりやすい。

浄化でもデトックスでも調整でも

好きな言葉を使ったらいいと想う。

そして、お水もたくさん摂ったらいい。。

『私に戻る』ための何かに

そういった意味合いの言葉が当てはめられて

体感とともにそういった言葉も

新しい振動をたたえた自身の細胞とともに

『望み』の方へ運んでいくから。

。。。

夜な夜な言葉を交わし合う。

きっとそのどれもが大事で

だからといってそこには他愛のないことも満載だったりする。

神経を支えるグリアみたいに

大切なものを支えているからこそ

やがてその柔らかくて繊細なものも拾い上げることができるのかもしれない。

効率という意味では

抽出したものを処理していくようなやり方の方がとっても鮮やかで

まるごと受け止める、はそれほど要領のいいことではないかもしれない。

単なる『お節介』で

単なる『いいひと』で

抽象度も高いし、時間もやたらかかるから。

特殊なスキルとは見做されないであろうあれやそれやも

そんなのやってられない、という人にとっては特殊なスキルと見做すこともあるかもしれない。

いろいろなのがあっていいし、どれもアリにできたら素敵。

ここのところ本当にそう想う。

そして、無力さもまた力だったりする。

そんなことを想えるようになったのもここ最近のこと。

。。。

できるなりの何かが

できないなりに(本質から向き合える)別の何かが

現象としてあらわれていく。

ぱらぱら漫画みたいに連なっている『今』を

そんな予定調和の『今』を生きるのではなくて

望みを叶えるための『今』に差し替えて

動き始める『勇気』を見たよ。

とってもみずみずしくて

笑った顔もいつもと同じように愛おしくて

そんな毎日に触れられることが

ささやかなしあわせで。

それは、美味しいものを口に含んだときの

感覚みたいに広がった。

。。。

し合ってるんだ、いつだって

ひとりでは決してできない

し合う、ということ。

だから、また、わたしにできることをしようと想ってみるの。

期待するような『し合わせ』となるかどうか

それは創造次第。

たまたまの結果も創り手次第。

手を差し伸べる、というのはどういうことだろう。

全身で受け止める、というのはどういうことだろう。

相も変わらずそんなことを想ってみるの。

今年最初の蝉が鳴いた。

先週の水曜日。

授業中、笑みが漏れた。

まばらなざわめき。

拾い上げた

夏のはじめのひとかけら。

。。。

久しぶりの快晴。

洗濯物が風にたなびく。

太陽のにおいとばりっと乾いた肌触り。

私の中もまぶしいひなたになる。

薄い空

そろそろ雲が変わる頃。

。。。

1年ぶりに出逢う笑顔。

別々の国で、別々の環境で、別々の時間を過ごしてきた

そんないろいろが瞬く間に融合する瞬間。

一致する

とても綺麗に。

隔てているものなんて何もない

楽々と飛び越えてひとつになる。

。。。

限りある午後を

限りがないみたいなやり方で満たすから

なおさら一瞬のように感じられるのかもしれない。

。。。

そもそも

分かれているってなんなんだろう。

自分の前に姿が現されていないってどういうことなんだろう。

物質的な認識で捉えられないから『いない』ではないと想うの。

触れ合えないから『いない』になる気が全然しないの。

。。。

いつでも『いる』のに

いつでも『在る』のに

『いない』とする必要がある思考、感情、認識、意識、在り方。。

そう決めた『想い』が

そう決めた『感じ』が

『いない』を決めつけて

その『想い』や『感じ』をさらに強化する。

『いない』にしておくことで満たされることがあるから。

『いない』が『いる』になると困ることがあるから。

そのままでいいの

紐解かぬならその感情でいつまでも覆っておける。

いつまでも困らないよう自分を守ってくれる。

変わってしまえばいいの

紐解くのならどんどん新しい自分になる。

困ってたことが笑い話になる。

。。。

つながっている、と勝手に決めつける遊びを楽しんでもいいじゃない。

つながっている、と根拠のないしあわせを満喫するのもいいじゃない。

悲しいのも淋しいのも

肉体を持つ世界では

それはエッセンスでしかないな

と想い至ってからは

とろ~り口当たりの優しいプリンの中に

バニラビーンズがいっぱい入っていて

想わず嬉しくなってしまうみたいな

そんなことを感じてる。

。。。

くすんでいたオーラがすっかりきれいになっていた。

適材適所ののびやかさ

そういう感じ。

先日、土から水に替えたポトスが

いきいきさを取り戻した

あの感じ。

きっと『与えられる』とつながれた

そんな風なこと。

息のつける場所

らしさを発揮できる場所

一言でいうならば、心地よさ。

自分のままで存在する、は

水をぐんぐん吸い上げて

しおれ切ってた葉がぱりっとして

息を吹き返すのにも似ている。

瞬間、瞬間、それをやってのけていて

息を吹き返し続けるから

結果として『生』となる。

『生』でいられるのはいつだって『与えられる』の結果。

彼女の華やかな笑顔が与えられて

私も息を吹き返す。

爪先の先の先まで手足を伸ばしてから

そっと力を抜いた。

みんなが憂鬱なお天気が続いている。

雨が降っている、というだけなのに

そんな簡単に憂鬱になれるのがすごい。

たとえば晴れが続き過ぎても

同じことを言っていたりするのだろう。

そういうのってきっと

自分の中にある『何か』を誰かに投影するみたいに

天気模様にも映し出しているのかもしれないな。

。。。

私はちょっと変動しやすい身体を持っているだけ。

雨の日に長靴で歩くのも

水滴で色っぽさがぐっと増した花を撮るのも

ちょっとくらいの雨なら傘を差さないで歩くのも

雨の音に耳を澄ますのも

雨のにおいに圧倒されるのも

水たまりに次々に描かれる波紋を見つめてるのも

色とりどりに咲いた傘たちの流れを眺めてるのも

好き。

いろいろ。

しあわせな気持ちになる。

。。。

とかく、『焦り過ぎ』とか、『考え過ぎ』とか

私に言うその人自身がそれである

という投影が面白いな、と想うの。

ひいては

それを額面通り受け取り続けていたことも面白いの。

本当に長い間そうしてきてて

なかなかいい感じに芽吹いたやる気や集中を

そういったジャッジごときで

みるみる萎えさせてしまってた。。

今さらながら、すごいなと想った。

エネルギーは与えるのも奪うのも、実にたやすい。

やすやすと影響するし影響もされる。

そうやってバランスをとってることがすごくて。

何も意図していなくても創造が起こっていることがすごくて。

それは、ポジティブにもネガティブにも自由自在に創っている。

願いを叶える方向へ。

。。。

私の中で『ぷしゅう~~~』って勢いよくしぼんでしまうあの感じは

『ニート現象』だったのかー♪

のひらめきがきて、いい音立てながら腑に落ちていった。

水琴窟に水滴が落ちるごとに

艶やかな音が広がっていくみたいに。

。。。

たびたびハマりやすい『ニート現象』という轍も

すでにおなじみなので何度ハマっても構わないよ、の反面

『何も私がニートをしなくともよい』

(誰かの物言いに逐一反応して見せることで

ある種の優しさを届けていたのかもしれない、との気づき)

にもなって

『心地よさ』から選択していいというのが

頭ではないところで受け取れて、嬉しい納得。

。。。

こういうなんとも表現しづらい『感じ』というのは

説明もままならなかったりするものだから

ともすると『病』扱いされたりするし

すると、周りは妙に落ち着いちゃったりするし

自らも肯定してしまう方がよっぽど楽だったりすることも

よくある話なのかもしれない。

心に降る雨、とか言うと情緒はあるけれど、なかなか通じづらく

また、『ニート現象』もたいして変わり映えしないのだけれど(笑)

自分にとってそれっぽいしっくりくる言葉が見つかると

所在無げなのが救済されたようで

ちょっとほっとできたりする。

所詮、言葉という『枠』なんだけれど。

みんなそれぞれ違う概念をもった単なる『括り』でしかないのだけど。

それでも、そこから始められる『スペース』でもある、とすることもできる。

スペースと言えば

くりすたりうむのときの一番最初のブログ名が『Moon Space』だったことを想い出した。

すっかり忘れてた(ぼく地球好き過ぎの影響がここにも。笑)

転じて

『ツキの在る場所』にいつもいる、でもあり。

それに尽きたりしちゃったりもするのだ。

つまり、『ラッキーで在れ』

すごくシンプル

身を置く場所も、想いや感じを委ねる場所(言葉)も。

日付けが変わってから

なぜか彼氏さんとcos(コサイン)の話で盛り上がる。

もうね、全然わかんないの(笑)

こういうのを致命的というのだ

とつくづく想う。

数学も物理も

中学早々の時点で脱落してしまったの。

けれど

この3次元ではこの身体がそもそも物理なのよね。

たぶん

解ればいずれもけっこう好きな世界だと想うの。

なんだけど

食い下がろうとしても

適当にあしらわれた(面倒くさがられている雰囲気を感じ取った)時点で

あっさりぽっきり折れてしまっててね。

この行く手(分野)は苦いとしか感じられなかった。

そういうのがいっぱいあったし

そういうもの、と無意識にタカを括ってたりもした。

。。。

何でも聞けるって、すごく楽しい。

気兼ねなく言えるって、ホント嬉しい。

学ぶの原点って、きっとこういうことを言うんだ

っていう感じがして

理解につながってない時点でもすでにしあわせ。

気分は小学生♡

こういうのを早くから見つけた人は

自発的に学ぶのが好きなんだろうな。

そういう人にちょこちょこ出逢っていて

みんな淡々とやっていて

決して頑張っていないの。

それはシンプルに

『世界、なんだなぁ~』って感じる。

。。。

他者によってやる気を削がれていたように感じていたのも

そのときの心持ちとシンクロしていたということで

あるいは、それを必要としていなかったという帰結で

また、この感動を味わうための引き立て役みたいなもので

『今』が素敵なのがなにより♡

いつでも望みを創り出し

望み通りの世界に棲まう。

すべて『願い通り』だけが在る

現実という名の幻想の世界。

。。。

教科書すら読み解けなくて難儀なのも

単に表現方法の違いがあるだけなの。

たとえ『人見知り』でも

知ろうとし続けるだけで

少しずつ解ってきたりする。

通じ合えたりする。

個性を彩る表現の前提が見えると

コミュニケーションの質が格段に変わっていく。

自分が自分の表現しかできないように

相手が相手の表現しかできないように

学ぶものもその個性をあらわすことしかできない

のだとしたら

苦手意識も人見知りも同意で

『知ろうとし続ける』

の大切さを再認識できる。

。。。

自分のまだ知らないものに対して

『枠』を通して解釈しようとする癖も

無い方がすっと沁み込んできやすかったりするけれど

有ることでもどかしいことになったとしても

それはそれで面白いプロセスとなる。

すると、不器用だって面白い、になる。

怖れから『枠』をつくることがアリになる瞬間。

他者のそれと対峙する度に感じていたもやもやも

それでいいんだ、になる瞬間。

必要に応じて、枠形成や枠解体をしながら

在り方を時々刻々と更新していく。

。。。

私の何かが

『世界、なんだなぁ~』の域になる『今』が訪れる。

そんな前兆を感じた夜更けのこと。

最近、ハイビスカスをよく見る。

流行ってるの?

。。。

実技で組んだ男の子のお腹が硬くて

しばしのマッサージの後

ただ手を当てていた。

すごく淋しい

どうしたらいいかわからない

でも誰も頼れない

何を信じていいかわからない

これは

当座の間、それを隠し通すことを決めてしまった肚だ。

振動になりきらない振動を手で受ける。

凍える振動。

。。。

ぬくもりだけ

ただただ『純化した』ぬくもりだけ。

誰かの、と限定しない

誰でもが有している『ぬくもり』。

誰かの、を受け取れず

誰からのも、受け取れない。

そんなときは

誰のものでもない、が最適だったりすることもある。

真逆の、ぬくもりのない冷たい世界にただ独り

身を置き続けることもできる。

。。。

あえて、ごくごく稀薄な縁を結ぶ

あえて、しあわせとか論外、と感じられるところとつながる。

ごまかすように、でもいい

逃げるように、でもいい

自分を抱いてあげるのだ。

自分という他者を使って

執着など何もない他者を利用して

自分を大切に大切に扱ってみるのだ。

そんな試みも面白い。

そんな試みがすでに愛だ。

多少は和らぐかもしれないし

まったく変わらないかもしれない。

多少は温まるかもしれないし

よりつらくなるかもしれない。

多少は息を吹き返すかもしれないし

かえってこじれるかもしれない。

そんなの誰もわからない。

けれど

わからないからこその、無限の可能性の広がり。

わからないからこそ、『素敵』と感じる能力を有している。

。。。

すべてはわからなくて

それすらわからなくて

でも、それってつまり

わかってる、ってことなんだと想うの。

みんなわかってて、もう一回、『想い出す遊び』をしに来てる。

。。。

何の確証も保証もないまま

『名もないぬくもりのみ』を味わっておいで

の意図で

風俗にでも行って抱いてもらっておいでよ

確実にNOがくるであろうことをあえて発してみるも

意図など伝わるはずもなく。。

(伝えようと想ってないからね)

(そんな器の人に出逢える保証もないからね)

。。。

誰かとの、とか

どんな風な、とか

そういった接続を持たせない

『純化したぬくもり』というのは

もしかしたら

意識しないとなかなかできないものなのかもしれない。

さまざまな要素によって

個々に色合いを変える感受性

その先の自分を温めるのかどうするのか

という意図などで

閾値はたやすく変わり得る。

。。。

たとえば、そこに没頭できたなら、本質にたどり着く。

誰かとの、云々の前に

まず自分が

受け容れられている

愛されている

が思考や感情よりも先んじて『感じ』として受け取れる。

その『感じ』は

思考や感情を超えたものを内包している、と気がつける。

どんな風な、云々の前に

どんな自分であってもいい

と受け容れられていることがわかる。

つまり

抱かれて(愛されて)当然な存在、ということ。

愛されているから

『今』ここに存在している

という事実への認識(思考)に至らずとも

そんな風な『感触』に自分を浸すと

自身をきゅうきゅうに締めつけていたものが

緩んでくるのがわかる。

解き放たれたりもする。

。。。

本質にたどり着く

なんて漠然とした感じなのだろう。

魂が実感する

そんなのどうやってわかるのだろう。

『ぬくもりに触れ、浸りきる』は

たまたま体感しやすい方法のひとつにすぎない。

手を伸ばすからこそ気づけたりする

単なるきっかけ。

肉体があるからこその、とてもシンプルな入口。

望むから得られる。

『ぬくもり(愛)』

そんなシンクロ。

。。。

自身を守るために

きゅうきゅうに締めつけたままでいるのも

自由な選択のひとつ。

それだけ、自身の確信するものを諦めていなくて

切なる希望を持っている、と言うこともできるから。

その素敵なこだわりも

決して離したくない『宝物』なのかもしれない。

近道も遠回りも

器用も不器用もない。

ただ違ったカタチの愛があるばかりだ。

だいたいこういうのは多少の時差をもってやってくる。

夏至が過ぎて少し経ったこの時期は

6時、7時でも夜っぽさがあどけなくて

手放してしまうには惜しいほどの愛おしさが胸いっぱいに広がる。

人の醸す賑わいの気配

その醒めやらぬ様は

太陽の余韻とどことなく似ていて

それがすっかり無くなってしまうまで

ずっとずっと見ていたい、と想うんだ。

そんな、願いみたいな外界の『感じ』に

あまりにもシンクロしやすいから

普段はなかなかこんなことないのだけど

少しだけ、のつもりが

墨みたいな色した海に溶けてしまうみたいに

そのまま何時間も何時間も眠り続けた。

めずらしいの、とても。

。。。

人は、疲れてるね、とつまらないことを言う。

そういうのに合わせるように、疲れやすいんだ、と応える。

病にしたい人は慢性疲労とか言ったりする。

だから、慢性疲労なんだ、と応えたりもする。

共通言語、というのはとても便利で

ホントは違っていたって、みんな困ったりなんかしない。

だから、自分が困りたかったら

そんな風に言ったりする『自由』も楽しむ。

下手に、理解を求めてみよう、などと試みると

途端に『変な子扱い』されたり(もしくは不快さを抱かせたり)する。

それはつまり、相手方の

『キャパオーバー』のサイン

と言い換えることもできるのだけど

たいていは、摩訶不思議なくらい

キャパを広げよう、大きくしよう

という風にならないものでね

『変な子』が『普通』を演じたりしてバランスさせちゃうんだ。

ホントは、『変な子』を言い換えると

『魅力がある』ってことなんだ。

『キャパオーバー』の人達の

思い通りにならないもどかしさが集約されているだけなんだ。

『変な子』呼ばわりされる子たちがまるごと赦してくれているだけで。

理解するされる、ということも実はあんまり関係なくて。

単にいろんな人がいる、というシンプルさがそこに在るだけで。

。。。

朝起きたら、いつも出る時間を過ぎていた。

一瞬ハッとして、次の瞬間には落ち着いて

コーヒーなどを戴くことにしよう、とお湯を沸かした。

雨音が独特のリズムでもって、私を包む空間を満たしていく。

普段は味わわない、珍しいとき、珍しいこと、が

ふいに抱きしめられたときにふわぁっと広がる愛おしさみたいで

なんかちょっとかしこまって隠しておきたい感じだ。

充実の後の余暇

たまにはこういうのもいいかもしれない。

雨粒が路面にできた水面に打つ様は

重力など働かなければ

水玉は空を漂って

小さな粒がくっついて大きな粒となったりして

ふよんふよん揺れたりするのだろう。

実際の跳ね返る様を眺めながら

スローモーションで認識できたら

カメラみたいに一瞬を捉えられたら

なんて想ったりもしながら

このただひとつとして同じではない様を見せる『今』が貴重すぎて

いっときも目を離さずにはいられない。

バスから眺める硝子越しのそれはしばしの永遠。

。。。

必要とする人の願いを叶える。

自分にできる全力で。

頭を駆使して、想いを駆使して、身体を駆使して、時間を駆使して。

それは私なんていない状態。

いるけどいない。

一体になっているから境界線みたいなところがぼやけてわかんない。

そんな感じ。

一体故、しあわせ。

自分が何かをするわけではない。

そして、願いが叶えられてるかはさておき、一方では確実に叶えてたりする。

世の中のすべてのことは

十中八九(もはや、十中十♪)『甘える+駄々っ子。おまけで答え』くらいのもので

器の中で、のびのびできて、ごろごろできて

『縮こませてたとこ、伸ばしてごらん』

(そんなあなたのまんまでいいよ)ってすると

本来の『感じ』が戻ってくる。

無理して違うものを演ってたのも

素に戻れることが解なことも多い。

元気不足を鍼で補うとか

エネルギーワークをするとか

手法は数多あるけれど

そんなことしなくても補えてしまったりすることも多くて

究極、はぐだけでほっと息つけちゃうものだったりするし

何にもしゃべらずただ横にいるだけで完結してしまったりもする。

答えは二の次で、甘えて駄々こねて、そんな自分でも否定されなくて

『いいよ』ってふんわりまあるく包まれてほっこりできたら

また元の場所に戻っていける。

そんな顔を、姿を、エネルギーを観るのが、本当にたまらない。

。。。

雨足が強くなったり、弱くなったりしている。

気持ちだって、どんな風になってもいいよ、にすると

今まで出さなかったようなのが出てきたりする。

豪雨とか、雷とか、かんかん照りとかが

ダメじゃないのと同じ、ということ。

雨の日のドライブだって楽しいし

台風の中、傘なしで歩くのだって楽しいし

しんしんと降り続ける雪道を30分以上歩いて帰るのだって楽しい。

ダメにしてたこと、に『いいところ』を見つけられたら

すべてにとても優しくなれてしまうんだ。

たったひとつのことに集中できてしまうんだ。

ひたすら歓びで在れるんだ。

寝過ごしたことだって、失敗にも恩恵にも受け取れて

そんな小さなことでさえ、思いがけない感動になったりする。

雨粒の、ころんころん、とした軽やかさに

似たものを見た気がして、ちょっと胸も弾んだ。

街中で佇んでいたら

ソープのボーイさんから声をかけられた。

どうやら勧誘されてる模様。

しかし、よくよく聞いてみると

ただのナンパだった。

休憩時間なんだって。

てか、もっと人選ぼうよ。

一目惚れ?

上手いね、でも、ありがとう。

てか、ちゃんと人選ぼうよ。

勧誘にしろナンパにしろ

この年代への需要は知ってるけれどもさ。

いやいや、そういう問題じゃなくて。

まぁ、私が一番暇そうに見えたんだろうな。

相手にしてくれそうなオーラなどを

発していたのだろうか、私。

(周りを見回してみた)

。。。

暇といえば、昔読んだ『アムリタ』の中に

みんな頭の中が忙しすぎて

なかなか声を掛けれる人がいない

というような文を読んで

ハッとさせられたことを想い出す。

というのも

それを読んだ頃

絡まるばかりの思考が私を占めていたから。

空っぽの人なんているの?

ぱんぱんの状態からは想像がつかなかった。

まぁ、作中のシチュエーションは

ナンパではないのだけれども。

それを言ったのは小学生の少年なのだけれども。

それだけに

その鋭さにハッとさせられたんだ。

そんなことを想い出した。

。。。

友達の弟に対して

言葉にならない何かを感じていたのは

こことリンクしてたのか

ということにも気がついた。

魅力的なんだ、とても。

いちいち感動するんだ。

でも、どこか儚くて。

外側の器と内面の器のギャップに

なんだかぐらぐらするんだ。

その瞳で

何を見透かされたって構わない。

そこに何を見ているのか

ひとつ残らず教えて。

そんなことを想いながらも

未だ『全開を拒む私』を認識する。

と同時に

プロフの写真を撮ってくれる、という話に

無理無理無理、って応えていたのも

なんかこれ書いてたら、アリと想えてきた。

不思議。

。。。

たとえば、道案内なんかも

きっとそういう判断(無意識なことがほとんどであれ)

で聞く人を選んでいるんだろうな。

数年くらい前から

ちょこちょこ聞かれるようになるにつれ

感じるようになった。

何が変わったのだろう。

きっと『いいな』と想える方に

望みが叶っているということの

あらわれなのだろう。

『逢うべき人とはこれ以上ない絶妙なタイミングで逢うようになってる』

空っぽでもぱんぱんでもいいんだ

きっと、どちらでも。

。。。

やたら懐っこいボーイさんとの

ホントと嘘を絡め合わせながらの言葉遊びは面白かった。

そういうのできるんだなー私

というのはなかなかの発見だった。

どうしてそんな簡単に

人の懐にぱーんと入っていけるの?

初対面ながら尊敬もした。

。。。

人見知りとか受け身とかの『枠』認識を

持っていても持っていなくても

勝手に現象化するに任せておくと

顕在意識とは関係なく

認識は上書きされていく。

潜在意識の方が強力ゆえ

楽な方へ楽な方へと

自然と変わってしまうような実感は

多少の時差をもって覚えるのだろう。

『委ねる』をほどいていくと

きっと、こんな感じ、を言うのだろう。

自分ですべてを創り出し

自らが『私』も『他者』も演じている。

いつのときも例外なく。

。。。

昨日、2人の友達とそういう話になったら

不快(否定)の反応が返ってきたけれど

それもいいね。

苦しいときは苦しいもの。

そんなの理想だ、そんなの理解したくない

そんな反応もいいね。

一般的なのと希望はまぜこぜだもの。

だから、解った上であえて投げちゃうんだ、私。

『引っかかり』として残ったら倖い。

やがて

嗚呼〜そういうことだったのか

になったりするかもしれないもの。

ならなかったとしてもいいじゃない。

そんな『自由』を投げてる。

何を選んでもいいんだよ、どっちを選ぶ?

つまり、『お節介』を遊んでる。

『真剣に受け取る』ことさえ遊ぶことにしたの。

でね。

遊ぶとなぜか『受け容れられる』の。

面白いの。

。。。

結局、ボーイさんはそのまま1時間ほど離れずにいた。

長々と立ち話。

なんなんだー、なんだけど

別れ際の表情はなかなかいい印象を残していった。

。。。

懐かれるがまま

ほどよく甘えさせたり

適度にいなしたりして

日々のルーティンの中で

こういうのも楽しかったでしょう、というね。

『愛されても返さなくてもいい』

という許しを与えたら(責任を手放したら)

返歌からさらに転歌の現象が起きた。

。。。

電話なんて嫌ーい、と言って何も交わさぬまま別れる。

そういう縁も面白い。

別れ際の表情がよかったのは

私も、なのかもしれない。


昨日の返歌

。。。

私自身の『何か』と交わす対話

決まって変わるその後の身体感覚

今回は骨盤の在り処が変わった模様

。。。

強がり、投げやり、はったり

持て余したもの、ぶつける、吐き出す

捌け口、汚いもの、 きれいなもの

穢す、穢される、乱される

冷える、凍える、凍え死ぬ

荒む、救いようのない、均衡能力

愛される、愛される、愛される

応えたい、応えない、応えられない

受け入れる、受け容れる、受け止める

。。。

『表層意識』(いい子)で隠した

『潜在意識』たち

。。。

そんなすべてを憎む

ただただ罵る

ひたすら嘆く

そのすべてを呪う

大切にしなかった私の細胞全部で

それをやる

『息の元』だったそれを止めにかかる

起坐でさえ窒息

そんなことじゃないと解れ、気づけ

対症療法なんか

もはや手遅れ

別れ、分かれ、解るから

機能不全を舐め尽くす

味わい尽くすから

また始まるんだ

。。。

『子宮』

だから、再生する

だから、一致した

紅の絨毯を剥がしては

取り戻す

何度でも

何度でも

『稀は常』だと知らせる本能を

反転させてなお『生』を与え続ける真実を

。。。

同じ視点で直視していく

生々しい貴さを

あざといくらいの汚なさを

伏せがちだった瞳の強さで

閉じ込めていた柔らかい眼差しで

私にとっての子宮。

子宮ってなぁに?

。。。

『子宮の声』を頻発する友達のそれが

どんな風なのかはわからないけれど

なにかとても大事な意味づけがされているのだろうな

というのはとてもよく感じられる。

。。。

なんか『女子力』みたいな流行り言葉ではなさそうと感じたのは

また別の友達が不意に発したからだ。

。。。

そういえば、子宮と対話したことなかったな。

。。。

私の子宮は何を話し出すのだろう。

何を隠していたり抑えていたりするのだろう。

。。。

私にとっての子宮。

子宮ってなぁに?

。。。

私を護るもの。

ひとりぼっちだった私を

言葉など交わさずとも

ひたむきに支えて続けてくれた存在。

。。。

どんなに不安定なときでさえ

私が私でいることを諦めさせなかった

貴く清らかな存在。

。。。

弱虫な私に

静かに勇気を与え続けてくれた存在。

。。。

拙い私に

たくさんの人たちを『愛する』『慈しむ』をさせてくれた存在。

。。。

そのお蔭で私はとても強く在ることができた。

。。。

側からは『強がり』としか見えなかったであろう時期も

『愛する』という温かなあかりを灯し続けることで

心強さとなっていた。

。。。

崇める存在ではない。

祀るような存在でもない。

それはまさしく私自身だった。

やっぱり主体は紛れもなく私だ。

子宮は象徴。

能動的に愛することができる私

を魅せ続ける象徴(鏡)。

。。。

自分の感情や思考を私以上に簡単に持て余しては

お金や愛してるという言葉などと引き換えに

いともたやすくそれを吐き出しぶつけてくる生き物たち。

とても素直な生き物。

。。。

キスもセックスも捌け口じゃない。

もちろん捌け口にしたってかまわない。

そんなことくらいじゃびくともしない。

けれど

『そんなののためにあるんじゃない』

そこは決して揺らぐことはなかった。

気高き子宮。

。。。

穢されることなどありはしないし

そういう生き物をとうの昔に受け容れて久しいから。

引き換えなど求められることなく

ただひたすら注ぎ続けることに専心してもらう愛だって知ってるから。

。。。

私の子宮は

捌け口ではなく愛し合える人を

より高い確率で引き寄せるセンサーでもある。

決して荒むことなく

愛の側で居続けることができるのは

そういった次第なのだという確信。

そのお蔭でここまで向き合わずにこれた

というのなら素直にうなづける。

有能な子宮。

。。。

見て見ぬ振りを続けてても

暴走(病気)することなく共に在り続けてくれた。

ひとりぼっちだったのは子宮で

長らくかけ続けてきた制限で苦しかったのも子宮で

見て見ぬ振りされて助かっていたのも子宮で。。

子宮は私なのだから

すべては私以外のなにものでもなかった。

私(子宮)を見て見ぬ振りして

私以外のものを助けるのも

結局自分を助けてるということ。

それは、私以外も私だから。

。。。

それにしても

助けるは本当に語弊があって。。

護る強さがあり

貴く清らかで

勇気を与え

能動的に愛することができ

気高くて

有能。

。。。

ていうか『誰?』、ってなものだけど(笑)

それをすべて受け容れるということ。

。。。

でも、そっか。

それらを『すくってあげる』のか。

掬って上げる

救ってあげる

まぁ、そういうことなんだ。

。。。

つまり

私はすでに助かっていたけれど

新たに助けられて

また次の瞬間にも助けられてる

ってからくり。

。。。

それは絶え間なく行われていて、愛も常に与え合っている。

。。。

べたべたすることよりももっと自然な。

それは無意識に呼吸をする、みたいなこと。

お水がすーっと沁み込んでいくようなこと。

。。。

私と子宮は同じで

カッコいい『サマになる』部分を子宮が担当してくれてて

だから私はこんな風でいられてる。

。。。

ありがたくてしあわせでいられるのは

きっとそういうことなんだ。

『頼られたい』と願う人が

『頼る』をすることでもって頼られたりする。

。。。

『強くありたい』と願う人が

『弱い』をすることでもって強さを実感したりする。

。。。

逆をやることで

自分の描いた願いが小さなものだったことに気づく。

。。。

そこからはみ出してる願いは

私だけではない『誰か』の望みも叶えてる。

。。。

はみ出しちゃうと

汚いんじゃない。

雑なんじゃない。

。。。

はみ出しちゃうのは

私が知ってる以外の『私』を知るということ。

私が望めていなかった『望み』すらわかってしまうということ。

さよならを言うのが

こんなにもつらい相手を持っているなんて

ぼくはなんてしあわせなんだろう。

。。。

くまのプーさんが

こんなにも素敵なことを言うなんて

(初めて知った)私はなんてしあわせなんだろう♡

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