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皆様、こんにちは♪
ご訪問ありがとうございます。
今日は午前中に、先日観れなかった
『借りぐらしのアリエッティ』を観てきました。
ひとりで映画館に行くこと自体が非常に稀であること
そして、映画というもの自体、借りて観ることすら普段しない私にとって
自分でも、なぜか気になる行動なのでした。
きっとそこに在るなにかに引き寄せられていたようです。
さて、昨日に引き続き、石塚ともさんのE-MAGAZINE
ロービューティジャパン 準備-01号の2つ目です。
せっかくなので、映画と関連づけて書いてみようと思います。
(ぼかしてはいますが、若干ネタバレ的な部分もあるかもしれないので
知りたくない方はここまでで。)
実は、E-MAGAZINEの4つ目のテーマのタイトルに
この作品のタイトルが書かれています。
今、テーマをひとつ読んでは書き、をくり返しているのと
今感じているものを4つ目まで取っておくということがきっと難しいのと
4つ目まで行き着いたときには、またそのときの『感じ』があると思うので
あえてそこに合わせて書かない選択をしてみます。
内容がかぶることはおそらくないと思うので
(仮にかぶったとしても差し支えはないと思うので)
そのまま進めていこうと思います。
この作品には、小人の少女と心臓の手術を控えた人間の少年が登場します。
彼らは、前作の『崖の上のポニョ』のように
出逢った瞬間相思相愛というような
誰にでもわかる単純明快な描写はされていません。
たとえば、もし、少女がルールなんて無視の無鉄砲な女の子で
少年が病気とは無縁の元気いっぱいの男の子だったら
この物語での関係性は成立しなかったでしょう。
また、人間同士、小人同士だったとしても同様だったと思います。
この絶妙な距離感、バランスがあったからこそ
その間に流れる『なにか』を描けたのではないかと観じています。
作品全体を通して
掌の中にいる女の子を握りつぶしてしまわないようにやさしく包み込む
そんな世界観が広がっていたように観じます。
このふたりの間には
求め合う、うばい合う、コントロール(支配)する、がありません。
奪い自分のものにする、という行為は
また別の登場人物を通して描写されているので
明確なコントラストがとてもわかりやすいです。
そもそも、アリエッティにとっては
家族(父・母)以外の存在からのサポートを受ける経験は
はじめてだったのではないでしょうか。
その相手は、生きる世界が違い、ともすると自分や家族
ひいては種族を脅かす存在(人間)です。
以前住んでいた他の家族も
人間に見つかったために暮らせなくなってしまったという。
前例があるだけに、警戒して当たり前ですし
友好的=罠、と思い込んだとしても、それは自然な心の動きでしょう。
これは自らを守るための大切な価値観です。
人生をこの方法のみで生きていくこともできれば
それ以外の選択肢を増やすこともできます。
後者の場合は、安心できる環境が整っていればいるほど
よりよい方法をよりたやすく見つけ出すことができます。
この作品の中で、少年は『サポート』に徹し
いつも少女に『選択の自由』を与えています。
時間的な『しばり』も与えていません。
今のひとときを引き伸ばそうともしないし、未来に逢う約束などもしない。
いつでも『今』を生きていて
(病気だからと言ってしまったら身も蓋もありませんが)
少女との間に訪れる『今』(というタイミング)を待つことも
受け入れています。
これは、少女が
『守ってもらえている・大切にされている』と実感することができる
とてもすばらしい適切なサポートです。
言葉の選び方も秀逸です。
次第に彼とのコミュニケーションに変化が出てきます。
それぞれの『伸ばしたらもっとよくなるであろう部分』が
関係性が育まれていく中で、成長を遂げていくようすが描かれていきます。
このくらいの少年に、そんなことができてしまうのですね~。
この部分にしびれた女性は、もしかしたら多いのかもしれません。
しかし、描写としては淡々と描かれているので
見過ごしてしまう(汲めない)と
非常につまらなく感じてしまうかもしれません。
また、彼女の小さくも懸命に生きる姿を目の当たりにして
少年の生きることを半ば諦めていたような態度や発言が
徐々に変容していくさまも、とても印象的でした。
自分にしかできないこと(日々瞬間瞬間を精一杯生きる)をすることだけが
誰かの心を動かすことができる
このシンプルなことが、作品の中の其処此処に
さりげなーく散りばめられています。
感動、というものは
心の動きの振幅の激しいもののように捕らえられがちですが
この作品における感動は、とても静的に観じられるものが多いです。
私たちが求める『しあわせのカタチ』という感動も
きっと静的なものである場合が多いのではないかな、と観じます。
ついつい、カフェインや白いお砂糖を摂ったときのように
はっきり、くっきり、しゃきーん、に慣れてしまうと
繊細な味覚がわかりづらくなり
知らず知らずそれを求め続け、いつしか中毒になってしまうように
大感動(という刺激)を求めてやまなくなってしまうことも
あるのかもしれません。
これからの時代、ささやかな感情の動きをとらえたり向き合ったりすることが
どんどん自然なこととして受け入れられてくると観じます。
そういったことを象徴している作品にも観じられました。
この辺りのことに共振できるか否かによって
この作品の印象は二分するのではないでしょうか。
ところで、先日、石ともさんのメルマガ(第5号)にて
ある質問が投げかけられました。
相手を信頼することができるかどうかを見極める方法です。
私は、男性からサポートを受けることについては
どちらかというと受け取れているタイプだと思っていますが
とても興味深いワークだと思っています。
多くの人にとって、人生で最初の異性からのサポートは
父親であることがほとんどだと思います。
その最初の『サポートのしかた・されかた』が肯定的なものであれば
その後も、適切な距離感で安全にサポートを受け取ることは
そうでない場合よりもたやすいでしょう。
私の場合、父との関係性が良好だった影響も大きいと思います。
その後につくられ積み上げられていった自身の『パターン』も
それを妨げるものではなかったのだと思います。
男性からサポートを受けることについて
メルマガ内の言葉を使ってあらわすなら
相手が『丁重に扱ってもらえている』と実感できる言動を
自然に難なく行っていて、『操ることができていた』ということです。
言い方を変えるなら
自身の内なる男性が相手の内なる女性に
『丁重に扱ってもらえている』と感じていて、『操られていた』。
つまりバランスがとれているときに
安全にサポートを享受することができていた、ということ。
それと同時に
自身の内なる男性が
相手を『自分の背後に配置して信頼できる』と判断した場合は
人生を渡っていく同士としても、長きに渡るつきあいが可能になる
とも感じています。
この部分は、サポートがいっときであるか長期であるかの違いを
見極めるときの基準にもなるように感じられます。
そして、見極めの基準となるもうひとつ。
相手の内なる女性が、自身の内なる男性
(自身の中にいる『伴侶)に手を出した』場合
自身の内なる女性は、相手の内なる女性への信頼を一気に失います。
具体的に言うと、うばう行為
(たとえば、同意を伴わない一方的な性的行為=暴力的なエネルギー)として
あらわれることが多いのではないでしょうか。
つまり、信用できない=関係性を維持できなくなる、です。
メルマガには、シンプルに男男、男女、女男、女女として挙げられていますが
一個人の内面に棲む、内なる男性と内なる女性をも考慮してみると
このようになるのではないか、の仮定です。
かなりややこしいことになっていますが(笑)
私たちは、自分自身のエネルギーを枯渇させる『なにか』に対して
とても敏感です。
エネルギーが尽きてしまうこと=死、であるため
自身の生命を脅かすものに対峙するとき
切り捨てる決断が迫られます。
アリエッティの家族も、同様の理由から住まいを移す決断をします。
少し話を戻します。
メルマガにあった提案、母と娘を質問に当てはめてみること。
これは、今までまったく思いつかなかった視点でした。
「あなたのお母さんは、あなたの夫や恋人と2人きりになっても、
彼らを誘惑したりしない人でしょうか?」
これはかなり衝撃的な質問でしたが、早速取り組んでみました。
今は、どんなことが出てきても、もう相手を責める気にならないということ。
出てきたものがどんなに凹むことだったとしても
以前のようにぶれる心配がないこと。
もしぶれても、知るだけでいい、整えればいい、とわかっていること。
見つけ出したことは、今取り組むことができるまでに準備が整っている
という確信があること。
(こういったことがまだの方は、性急に取り組む必要はないかなぁ~と。)
実際は、ふたりきりにさせていたことはほとんどない、はずなので
前提すらつくれませんが
性的な意味合いでの誘惑があったことも皆無だと思います。
では、私、彼(夫)、母がいた場面において
『なんともいえないいやーな感覚』も皆無だったかというと。。。
これは自分でも驚きだったのですが
そういう部分が存在していました。
決して、言葉通りの『うばわれる』に想定される
危機迫るレベルのものではありませんが。
20代のころ、結婚までいきそうでいかなかった彼がふたりほど
(どちらも2年ちょっとのおつきあい)母のお気に入りでした。
息子同然としてのコミュニケーションだったと思いますが
親しみ方というか、なれなれしさというか、に対して
ざわざわするものを感じていたのは事実です。
他の場面で感じていた、ずかずかと土足で入ってくるような無神経さ
として感じられていたものが
ここではちょっと別の色合いで認識していたようです。
彼になった人を無意識のうちに逢わせなくなったり
すべてが事後報告になったりしていることも
こういったことが少しは絡んでいたのかもしれません。
それまでは、ただただ干渉されるのが苦手だからだと思っていました。
また、それとは逆で、少しの間旦那さんになった人に関しては
上記のふたりのときとはずいぶん違う反応でした。
単に相性だから、といえばそれまでのことですが
悪口とも文句とも不満ともつかないようなことを聞かされるのも
あまり好きではなかったです。
まぁ、私自身が旦那さんとうまくいかなかったから、という前提があったから
それは自然な流れでもあったわけですが。
なにせ、このお題に関連する時期まで遡った時点では
母と娘(女と女)の適切な距離感や関係性が築けていなかったことが
わかったのでした。
今がどのようであるかはわかりません。
彼女は私の結婚、いやむしろ孫を望んでいることがとてもよくわかるし
実家に帰れば、それとなく(ときにあからさまに)その話題になることも。
手を出す出さない、といった意味合いとは異なりますが
こちらも性と隣り合わせにある非常にデリケートなテーマです。
母を『母』ではなく『女』として見たことは、ほとんどないかもしれません。
それは、いつのときも一生懸命働いていて自立した女性だったことから
いつのときもとても見えづらい一面だったからかもしれません。
町内会の集まりなどの際に、誰かの浮いた話などで盛り上がることに
嫌悪を抱いていたこと。
別に人のことなんだからいいじゃん、と思いながら
その話を聞いていた覚えがあります。
なにげに潔癖症だったりするのかもしれない、とか。
もしかしたら、彼女の『女』としての希望や絶望に関する部分が
私の人生の中に投影している可能性だってあるかもしれない、とか。
いやー、こんなに綴っておきながら言うのもなんだけれど
親の『女』の部分を模索するのって、なんとなくタブーな気がします。
でも、どれが事実でどれがでたらめか、なんていうことは
まったくわからないままでよくて
そこから導き出されてくる、自身の『パターン』にどのようなものがあるのか
どんな風にそれらがこんがらがって、未だに解放できないでいるのか、など
これらは非常に重要だと観じています。
私が出した答えは
女性が男性からサポートを受けるには
父だけでなく、母とも安全な関係性が築けていることが
より適切なサポートを受け取れる確立を高めることができる、です。
『借りぐらし』は
人間からいろいろなものを借りてきて生活する、という意。
基本的に、借りたものを返している描写は見当たらなかったので
聞こえ的には『借りぐらし』(『借り』と『狩り』がかかっていたりして)がよい印象ですが
言葉的には『もらいぐらし』の方が適当な気はします。
でも、もらう=依存、にはなっていない
(掟通り、人間に見つかったらその場所から離れる)ところに
小人族の美学を感じるし
自立しているからこそできる決断なのだとも思います。
共存=共依存ではないケースを見ることもできました。
また、人間と小人の関係からは
土の中にいるバクテリアさんや
ビンの中で発酵を助ける酵母さんに通ずるものも観じられました。
ちょっと意識を傾けることで
とてもとても小さい存在から大いなるサポートを戴いていることを
認識することが可能になること。
はたから見ると、いかにも人間が与えてばかりのようであるけれど
実際は受け取っていることの方が多いこと。
いつのときも、見えづらいことの中に、大切なことが存在しています。
作品の中では、ものを大切にする、工夫をこらす知恵、役割を全うするetc.
いたって当たり前と感じてしまうようなこと(でもとても大切なこと)が
丁寧に描かれていました。
彼らにとってはそのように聞こえるのだな、という
さまざまな効果音も印象的でした。
(ロービューティジャパン 準備-01号)
いつも応援ありがとうございます。
日々のさまざまな発見を発振させて戴きます。